今日のおおしお市民農園




2013年07月12日(金): 積丹半島の「西の河原」(さいのかわら)の紹介です。
「西の河原」とは、「賽の河原」のことです。「三途の川の河原」ですね。

この「西の河原」には、北側の「西の河原」バス停から、海岸沿いに歩いて行けます。


< 「西の河原」の歴史考察>

(1) 『松浦図』:”ヲッチシ、和,西院川原とも”
   「西院川原(さいのかわら)といふ。舟を寄するに小石を積置けり。」
   (表記は、山田「北海道の地名」から。当然、『松浦図』は参照しています。)

(2) 『永田地名解』:”カムイ・ミンダラ:神庭”
   「神ノ遊ビシ処、和人[サイ]ノ河原ト呼ビ小石ヲ積ミシガ今ハ積石アルヲ見ズ」

(3) <考察>

  A. アイヌ民族であれば、「賽の河原」信仰などは無く、”イナウ・木幣”を祭るでせう。
   アイヌ民族にとって、カムイとは荒ぶる神のことで、カムイコタンは神のみが住める集落を意味します。
   類推するに、永田地名解の”カムイ・ミンダラ”は一般アイヌが足繁く訪れる領域では無いことを示しています。 

  B. 松前藩統治時代、商場知行制 -> 場所請負制下において、武家、商家の配下の者が
    神威岬を越えて、余市、忍路、高島等の千石場所を往復していた。

  C. 海の難所である「神威岬」で、度々遭難する。

  D. 海難者の霊を慰めると共に、航海の無事を祈って小石を積む。後に地蔵尊等を祭る。

  E. 「神威岬」南8Kmの「西の河原」は、北側海岸線と岩場の間は、静かな入江になっていています。
    又、南側海岸線に停泊すれば、ジュウボウ岩で北西の風を避けられます。
    私見ですが、かっては「神威岬」を越える際の、風待ちに利用されていたのでは?
    そう考えれば、「賽の河原」信仰が根付くのも納得出来ます。
    (帆船時代、わざわざ、石積みの為に訪れる場所とは考え難いですから。)

  F. 思うに、「西の河原」は和人文化のなせる業なのではないでせうか?

                  以上こんな経緯ではと推測しています。(07/22 追加)




 窓岩とジュウボウ岬(付け根に「西の河原」が在ります。)



 上記画像から、「西の河原」のアップ画面です。 (地蔵堂が確認出来ます。)



 ジュウボウ岬(岩) (以上南側から)



 「西の河原」バス停から、「西の河原」(岩場)方面



 岩場から、「西の河原」 (静かな入江です。)



 賽の河原と、ジュウボウ岩



 賽の河原から、岩場方面(針地獄のイメージですね!)



 地蔵堂



 賽の河原の積み石



 「象の鼻」と称される岩場



 「象の鼻」から、「西の河原」


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